by もっさんハイボール倶楽部 要約
押しも押されぬクラフト蒸留所の雄、秩父蒸留所擁するベンチャーウィスキー。
肥土伊知郎氏を知らずして、今のジャパニーズウィスキーの盛り上がりを説明できません。
いろいろ調べていくうちに、すごくわかりやすくまとめていたYouTube動画にたどり着きました。
”もっさんハイボール倶楽部”のこちらです。
店舗についてはこちら↓
@HighballTHEONE
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良心価格で通いたくなるね、この要約ブログを出すことを快く受け入れてくださりありがとうございました!
いまや世界的に高い評価を受けるイチローズモルトシリーズ。
当初は個性的すぎて売り上げを伸ばすのに苦労したが、隙間戦略を狙って見事成果を上げていったベンチャーウィスキー、その歴史を紐解く!
前身となる東亜酒造の歴史
1625年 東亜酒造の前身となる肥土酒造本家を創業。
祖父肥土伊惣二の代で秩父鉄道開通を機に秩父から羽生市へと移転。
日本酒、焼酎、合成清酒、ウィスキーを製造販売した東亜酒造の設立者、羽生蒸留所を運営していた祖父は埼玉における酒造界の雄だった。
1946年にはウィスキーの製造免許を取得。
1959年東亜酒造と社名を変更、祖父が陣頭指揮をとり蒸留所の製造設備、整備をして羽生蒸留所として本格的に稼働を始めることとなる。
ゴールデンホースと命名し売り出すが、国内のネーミング問題でホワイトホース社と裁判になり勝利する。
現在もゴールデンホース武州・武蔵として販売され続けている。
1980年以降、本格的にポットスチルなどスコッチに似た環境が整い蒸留が始まる。
1980年代、輸入ものの手頃なスコッチなどで国内のウィスキー熱が高まり東亜酒造は地ウィスキーブームの先駆けとなる本格的な自社蒸留ウィスキーの製造に着手していき当初は順調な売上を堅持。
しかし、高度成長期を経て、1980年代中盤以降の焼酎ブームや洋酒でもワインやカクテルなど、消費者の好みも拡散してしまったので、洋酒といえばウィスキーの時代は終焉を迎え、東亜酒造の売り上げも下降していく。
祖父や父の代で樽詰めされたウィスキーは熟成庫でその眠り続けることとなったが、そのウィスキーは後に伊知郎氏によって大化けすることとなる。
肥土伊知郎氏の略歴
伊知郎氏は幼いころから酒蔵で育ったのでモノづくりに強くひかれるころになるが、家業を継ぐという意識はなかったという。
第一志望の大学に落ち、父の勧めで東京農業大学農学部醸造学科を受験し進学する。
卒業し、父とサントリーの社長佐治敬三が知り合いだったという縁でサントリーに入社。
サントリーに骨を埋める覚悟の入社だったそう。
すでに国内トップシェアのサントリーで蒸留所に配属されるためには大学院過程を修了していなければいけなかったので、製造部門ではなく販売部門への配属となった。
営業職も楽しんでいたが、モノづくりに対する情熱はくすぶり続けていたという。
転機となる里帰り
入社7年後、父から東亜酒造の経営が思わしくないので手伝ってほしいと打診を受ける
モノづくりを行いたいと強く思い、サントリーを離れ、東亜酒造に入社。
東亜酒造の経営は伊知郎氏の想像をはるかに超え、与えられた仕事は、生産の現場だけではなく、少しでも売り上げを伸ばすため、量販店をめぐって紙パック入りの廉価な経済酒を売りまわることも行った。
駆け回ったが赤字は増える一方。。
そんな中熟成庫に眠るウィスキーの原酒に目をつける。
そこにはイギリスから輸入したウィスキー原酒と自社で蒸留したウィスキー原酒が樽詰されしっかり保存されていた。
当時羽生蒸留所のウィスキーは癖が強くて売りにくいというのが東亜酒造社内での評判。
しかし伊知郎氏は癖が強いのはダメなのか?本当は個性的な良い原酒なのでは?
と考えるようになった。
自身の疑問を確認するべく、昼の仕事が終わると夜な夜なバー巡りをして、中身を客観的にかつ正当に評価してくれるのはバーテンダーさんだ、と考え、原酒を小瓶につめてティスティングをお願いすることに。
バーテンダーさんたちは個性的で面白いと一定数評価し支持を得ることになる。
自身が抱いていた羽生蒸留所の原酒のポテンシャルの高さと可能性に確信を持つ。
経営に関して意見の合わない父と疎遠になり、親子仲は急速に冷え込む。
東亜酒造の倒産
そんな中2000年には民事再生法を申請し、事実上倒産することに。
債権者に対する説明責任や信用回復に奔走しなんとか立て直そうとするも、2003年に日の出みりんの製造元として知られる日の出ホールディングスへの営業譲渡を決定することになった。
東亜酒造の自主再建を断念して他の酒造会社に譲渡することで、東亜酒造という金看板を残し、肥土酒造肥土本家から続く東亜酒造が肥土家から離れて人手に渡るという苦渋の決断をし、つらい日々を過ごしたという。
オーナーである日の出通商はウィスキー事業に全く興味がなく、ウィスキーのような時間がかかるビジネスに不要と、早々と撤退を決断。
羽生蒸留所の原酒廃棄の行方
実際、2000年代初頭のウィスキー業界の不況は深刻化していた。
羽生蒸留所内にあった原酒は400樽以上に及び、それは全て期限内に引き取り手が見つからなければ廃棄すると日の出通商サイドから通告を受ける。
3世代にわたって20年以上熟成された長期熟成原酒なども含まれ伊知郎氏にとって子供のような原酒たち。
伊知郎氏にとって廃棄は到底我慢できることではない。
使命感を胸に貯蔵場所を提供してくれる企業を探して立ち上がるが、そこに法律の壁がふさがる。
ウィスキーを預かるにはウィスキーの製造免許を持つ会社の倉庫でなければならない。
原酒を移動させるだけでも酒税がかかるので、保税倉庫のような場所が必要だが、日本にはウィスキー製造をしている会社が極めて少なかったことから、かなり厳しい現実に直面する。
人様の原酒を預かるなんて到底できない、、という回答がほとんど。
一般的に考えると至極当然の企業判断。
当時はウィスキー暗黒期、需要超低迷時代。
時代にそぐわないウィスキー原酒を極力減らしたい時世にわざわざ貯蔵庫を提供して他社の原酒を預かる企業が簡単にみつかるはずもなく途方にくれる。
救世主、笹の川酒造・山口社長
そこに福島県郡山市に本社がある笹の川酒造の山口社長からうちで預かってあげると申し出があり、協力を得ることに。
山口氏によると、「ウィスキーがどん底の時代に肥土さんは本当に熱く語っていた、その熱意に押された。それならうちの倉庫を使いなさい」と、協力を申し出たことを振り返っている。
さらに、長い熟成をかけて育てた原酒を捨てるのは一メーカーだけでなく業界の損失、そして酒文化に対する反逆であり、時間の損失であると、憤慨されていたそう。
山口社長の英断で笹の川酒造の貯蔵庫を間借りさせてもらうこととなり貴重な原酒たちは廃棄を免れることになる。
しかし、笹の川酒造の社内では、他社の原酒を預かることに対して少なからず異論があったとのこと。
社長は反対する社員と蔵人に対して、「ウィスキーは年を重ねるもので一朝一夕にできるものではない。誰かがいるかどこかで飲んで、その時に“美味い!”といって飲んでくれる人がいればいい、廃棄というのはそういう人と機会を奪うことなんだ」と語り、説得に努めたそう
山口社長と伊知郎氏が交わした約束が一つあった。
それは原酒をベースにウィスキーを造り上げ自身の手で売り切ること。
伊知郎氏は「私が独立してイチローズモルトというブランドをたちあげます」
世に羽生蒸留所のウィスキーを送り出す使命を胸に本格的にウィスキー事業に参入することになる。
肥土伊知郎氏、本格始動
2004年東亜酒造は日の出通商グループ入りをし営業権を譲渡した伊知郎氏は同社を離れることになる。
いままでは流れ流れて仕事をしてきたが、日の出を離籍し完全に独立、責任をもって自身の選択を信じて動き出すことを決意。
末席でも日の出に残ったほうがいいと親族にいわれても、このどん底の中で覚醒の時をむかえることとなる。
その年の9月に羽生蒸留所の原酒や自前で蒸留した原酒を使用するウィスキー、イチローズモルトの製造、販売、ウィスキーの企画、技術指導を行う会社としてベンチャーウィスキーを設立し動き始める。
再出発の場所は、肥土家がもともと日本酒をつくっていた秩父の地を選ぶ。
理由は、故郷であり、支援してくれる人々がいたこと、荒川上流のおいしい水があり寒暖差もありウィスキー作りの条件がそろっていたこと。
肥土家が秩父で受け継いでいた何かをウィスキーとして形にしたいという思いが伊知郎氏の胸にあった。
巨額の債務の連帯人になっていた伊知郎氏は、会社の代表になる資格はなかった。
そこへ秩父市で書店を経営していた、はとこの宮前圭一氏が会長に就任してくれた上、資本金を出資してくれる宮前氏は秩父の文化の一翼を担っていた有力者でもあった。
時を同じくして地元銀行の支店長も再起を図る伊知郎の誠実でまじめな人柄にほれて応援してくれることになった。
しかし当時、親族筋も銀行も一同、人気の焼酎、ワインではなく斜陽のウィスキーづくりに当然の如く懸念を示していた。
伊知郎氏は「当時ウィスキーの総量自体は減っていたが、それは低価格帯の安価なウィスキー需要が焼酎に流れているだけであって、シングルモルトやプレミアムブレンデッドと言われる高級ウィスキーの売り上げは落ちるどころか伸びていた」
事実、足で回ったバー巡りで確実な情報を得ていたのでデータで示して関係者を説得した。
ベンチャーウィスキーの初商品
2005年5月、廃棄を免れた羽生蒸留所の原酒を使ったベンチャーウィスキー初の商品であるイチローズモルト・ビンテージシングルモルト1988が笹の川酒造にて、ワインボトル600本に瓶詰され納品される。
設立当初の資金に乏しいベンチャーウィスキーでは瓶を購入する余裕さえなかったため笹の川酒造から譲ってもらったワインボトルで代用したのだ。
しかしまだ販売免許のなかったので、製造販売元は笹の川酒造、企画はイチローズモルトとして最初のスタートをきることになる。
税抜きで13500円。無名なウィスキーとしてはかなり強気な価格設定だった。
味で評価してくれるバーで扱ってもらう必要を考え、およそ2000件ものバーに営業を行い、約2年かけて、見事600本を売り切ることに成功。
その地道に取り組んだ販売開拓は、後に取り扱い店舗拡大へとつながっていくこととなる。
秩父蒸留所立ち上げへ
ただ残った羽生蒸留所の原酒だけではいずれなくなるので自身が新規に蒸留所を立ち上げて生産者として、自らの手で製造しなければならないと決意するのだった。
しかし、伊知郎氏はサントリーにおいても東亜酒造においても生産の現場に深く携わることがなかったので肝心の製造に関する知識と経験は乏しかった。
当時、メルシャン軽井沢蒸留所の責任者だった内堀修省氏との出会いも蒸留所立ち上げに大きく影響を与えた。
軽井沢蒸留所でもウィスキー需要の低下に伴い生産は2000年12月31日をもって終了していた。
メルシャン側の好意で2006年のひと夏に、内堀氏は保全休眠中の蒸留所設備を再稼働させ、伊知郎氏にウィスキーの仕込みから樽詰めまで一連の流れを体験させる2か月間の研修を行う。
2007年には本場スコットランドのスペイサイドにあるベンリアック蒸留所にて製造の実地研修も受けることができた。
研修中に仕込んだウィスキーは全量、伊知郎氏が買い取るという約束のもと行われ、この時の研修で蒸留された原酒は現在も秩父蒸留所の貯蔵庫に収められているという。
2007年、ベンチャーウィスキー初の自前の蒸留所となる秩父蒸留所を完成させる。
チーフディスティラーにはメルシャンの軽井沢蒸留所でお世話になった内堀氏を招聘し
2008年2月にウィスキーの製造免許を取得して蒸留を開始。
日本でウィスキーの製造免許が交付されたのは実に35年ぶりのことだった。
予期しないところからの高評価
2005年から2014年まで、9年かけて54種類をリリースしたカードシリーズは、1985年から2000年までに羽生蒸留所で蒸留されたもの。
その原酒をホグスヘッドホグスヘッド樽で貯蔵されたモルト原酒を4種類の異なる樽でフィニッシュしてシングルカスクでボトリングした企画もの商品。
そのすべてがシングルカスク、カスクストレングス、ノンチルフィルタード、ノンカラーであり各数百本程度を限定出荷品。
同じウィスキー原酒でも樽によって大きな違いがあるということをシリーズコンセプトにしていたウィスキーで4種類の樽に対して、トランプの絵柄も4種類、スペード、クラブ、ダイヤ、ハート、ラベルも分かり易くてキャッチーというデザイナーとの話から製品化されたウィスキーだった。
当時はバーに並ぶお酒に派手で分かり易いものが少なかったので「あのトランプは何?
」と興味を持つ人は多かったよう。
ただ値段は高かったので発売当初の2005年あたりではそれほど売れなかったそう。
しかしそのカードシリーズが突如として脚光を浴びるようになる。
2006年6月ウィスキーマガジン市場コンテストにて、カードシリーズのキング・オブ・ダイヤモンズが最高得点を獲得し最高賞をとってしまった。
そこから世界のウィスキー愛好家たちの間で「イチローズモルトってなんだ」と話題になり世に知れ渡ることになる。
さらに2007年にはトゥー・オブ・クラブスがWWAの熟成年別ベストジャパニーズ・シングルモルトを獲得する。
かつて、東亜酒造の社内ではクセが強くて売れない、日の出通商グループからは見切られ廃棄される寸前のウイスキーだった。
蒸留所建設で多忙の中合間を縫ってリリースした羽生蒸留所の原酒たちは次々に著名なウィスキーコンテストで賞を乱獲していく。
イチローズモルトに対する関心の高まり
2008年2月にはすでにイチローズモルトの注目度と期待度は大きく膨らんでいった。
ニューメイクですらクオリティが高いとウィスキー愛好家やプロが評価し目をつけていた。
伊知郎氏はこの方向で作れば間違いないかもしれないと思い、それが確信に変わったのが2011年10月、秩父産の原酒のみで作られ、秩父で熟成された3年もののウィスキーが発売された時。
秩父ザ・ファーストをリリース。
ことのほかすごいウィスキーができたかもしれないと、と率直に思ったそう。
記念品として数百本程度出荷しようと考えていたが、この品質なら本格的に発売しても大丈夫と判断し、7400本ボトリング。
しかし、発売日までに国内海外問わず予約で完売してしまうほどの過熱と競争だったという。
企業規模で大手メーカーと張り合うつもりはない。
だけど品質では負けないものを提供したい。
金や名誉より、ウィスキー職人としての独立独歩、美味い酒ができたら本望。
ファーストは、伊知郎氏のこの職人気質な努力が生み出した一品だったのだ。
ベンチャーウィスキーの発展、拡大
2010年代中盤には、年間20万本を生産するほどにまで発展。
東亜酒造の倒産からの16年間。
2016年の元旦に伊知郎氏は親子のわだかまりを超えて秩父蒸留所に父を連れてくる。
蒸留所が完成し、9年弱が経過してベンチャーウィスキー社の成功は東亜酒造の倒産以来、長らく冷え込んでいた親子の関係にも変化をもたらすことになる。
2019年8月16日に香港のオークションでカードシリーズ全54本、クラブ、ダイヤ、ハート、スペード各13種プラスジョーカー2種がそろった1セットが約1億円で落札され話題となった。
世界でもそろったものは4セットしか確認されていないという。
超高額落札に対して、伊知郎氏は率直にこう語る。
「素直にびっくり、高い評価はありがたい」としつつ
「飲み物の値段ではなくなっているように感じた、飲んでもらえるかどうかが心配」
プレミアムを見込んだ転売目的での購入が増え、我々のウィスキーを楽しみながら味わいたいと思っている人たちが購入しづらい状況になっていることに複雑な思いを抱いている」
と、複雑な胸のうちを明かしている。
2019年10月には第二蒸留所が稼働を開始。
今も道半ばの伊知郎氏の夢は
「30年物の秩父のウィスキーをみんなと一緒に酌み交わすこと」
「提供しているものはウィスキーそのものというよりウィスキーを飲む体験。」
「ウィスキーを飲みながら、一日の疲れをいやしたり、気の置けない人たちと特別な日を過ごしたりという体験の中に参加させてもらっているのがウィスキーという存在だと思っています。そんな時間を皆さんで楽しんでもらうことが私たちの願いです」
座右の銘は「時は命なり」
弊社の社是は「時と共に成長する」
肥土伊知郎氏の挑戦は今も続く。。。